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トンイの息子、朝鮮王朝21代王・英祖

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トンイの息子、朝鮮王朝21代王・英祖

朝鮮王朝21代王の英祖(1694年-1776年)は、19代王・粛宗とトンイこと淑嬪チェ氏の次男だ。異母兄にあたる20代王・景宗には跡継ぎがいなかったため、老論派の推戴で世弟に冊封され、1724年に王位に就いた。

老論派と少論派が派閥争いを繰り広げる中、英祖は一部少論派の策略によって「景宗を毒殺した」という噂や怪文書に悩まされた。景宗は英祖が勧めたカニの醤油漬けと生柿を食べて体調を崩し、死に至ったというのがその理由だが、真相は定かではない。

英祖は孫のイ・サンに王位を譲るまでの52年間、党争をなくすために各党派から人材を均等に登用する蕩平(タンピョン)策を推進したほか、庶民が兵役の代わりに納める布を半分に減らす均役法を施行し、自ら書籍を執筆するなど数々の功績を残した。粗食を心がけて81歳まで生き、
朝鮮歴代王の中で最も長生きした王としても知られている。

『秘密の扉』の舞台である18世紀半ばは、西人派から分裂した老論派と少論派の二大政党が権力争いを繰り広げていた時代だ。

1717年、19代王・粛宗は世子の景宗が病弱であるという理由で、英祖(当時はヨニン君)を世弟として代理聴政を執らせようとする。これがきっかけとなり、景宗を支持する少論派と英祖を支持する老論派の間で激しい党争が巻き起こった。英祖は世弟冊封を拒否し続けたが、その3年後に粛宗が逝去。20代王として即位した景宗は少論派の反対を退け、英祖を世弟に冊封する。英祖は少論派の陰謀によって謀反の疑いをかけられ、一時は賜死の危機にさらされるなど、常に身の危険を感じながら不安な世弟時代を過ごした。

党派争いに苦しめられた英祖は王位に就くと、老論、少論を中心に南人、小北からも人材を均等に登用する「蕩平(タンピョン)策」によって党派の間のバランスを取ろうとした。しかし、水面下での権力争いは続き、老論派の策略によって思悼世子の米びつ事件という悲劇が起こってしまう。老論派はその後、思悼世子の死に同情的な時派と、英祖の決断を当然のものとみなす僻派に分かれ、対立するようになる。

22代王・正祖は父の仇である老論僻派を嫌い、英祖の蕩平策を受け継いで王権を強化した。しかし1800年に正祖が急逝し、幼い純祖が即位すると、かつて米びつ事件に加担した貞純王后が摂政となり、僻派が政治の中心を担うこととなった。正祖の死は多くの謎に包まれており、貞純王后と僻派による暗殺説も根強く語られている。

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思悼世子と米びつ事件

悲運の世死イ・ソン(1735-1762年)は英祖と側室・暎嬪イ氏の間に生まれた。幼い頃から聡明で武芸に長けていたが、1794年に代理聴政を務めるようになった頃から、英祖との関係が悪化。少論派寄りのソンを警戒した老論派が、側室の昭媛ムン氏や貞純王后などを利用して、世子にまつわるよからぬ噂を次々と英祖に吹き込んだためだ。英祖に叱責され続けたソンは精神を病み、王宮を抜け出したり、女官をころしたりといった奇行を繰り返すようになる。

1762年、世子の非行を告発する上奏文に激怒した英祖はソンに自決を迫り、世子の地位を剥奪。臣下が自決を引き止めると、ソンを米びつに閉じ込めるように命じた。それから8日後の『英祖実録』には「世子が死去した」という一文とともに、知らせを聞いた英祖がソンの死を悼み、「思悼世子」という諡号を贈ったと記されている。

ソンの息子、イ・サンは1776年に王位に就いた翌日、臣下を集めて「余は思悼世子の息子である」と宣言。さらに父の諡号を「荘献世子」と改め、墓と祠堂を格上げした。